「学校と私」・・伝えたいこと
吉田町立自彊小学校 5年 藤浪 光
五年生になり、学校はなぜあるのか考える課題が出された。私は、単じゅんに、学校がないと勉強ができなくなり困る、学校がないと友達ができないので困るといったことを考えて、課題を提出した。学校はあって当たり前と思っていた私にとって、課題を提出した後は、そのことについて深く考えることはなかった。しかし、再び学校はなぜあるのと問いかけられる場面が出てきた。それは、新聞スクラップ作成で目にした「学校へ行かない選たくをしたあなたへ」というタイトルの記事だった。学校へ行かない選たくの部分が気になったので、記事の内容を一気に読んだ。内容は、学校に行きたくてもいけない子がいる、学校という世界が全てではない、学校へ行かない選たくもあるというものだった。読んでなるほどと感じたと同時に、自分は学校はないと困る考えに変わりがない事実をそこで改めて確認した。
記事を読んで自分の考えは変わらない。でも、学校が全てではない、学校へ行かない選たくもあるという言葉は、なぜ学校はあるかと再度考えさせてくれる言葉になった。
私は、学校が好きだ。友達関係でなやむこともあるが、学校は好きだ。なぜ好きなのかと聞かれたら、ずばり答えられない自分がいるが、学校に行かない選たくは、私にはない。
私の家は、学校のすぐ近く。目の前だ。だから小さいころから学校は身近で、ようち園に通っていたころは、いずれ目の前の小学校に行くんだなということを思いえがいていた。実際に通い始めた学校は、楽しかった。正しく言えば、いやなこともあったが、楽しかったことの方が多かったと言える。
そんな私に、五年生で出された課題「学校はなぜあるの?」そして、新聞スクラップで目にした記事「学校に行かない選たくをしたあなたへ」は、私に「学校って何?」ということについて、立ち止まって考える機会となった。
最近、私の学校もコロナの感せん予防の関係で、オンライン授業もあって、登校をひかえる友達がいる。だから、教室に全員が集まることがぐんと減った。そんな中、先生は先日、
「先生の一番の願いは、全員が健康で、元気に学校に来ることです。」
と話をしてくれた。そしてこんな言葉をつけ加えてくれた。
「学校に来ること。それだけですばらしい。」
私はこれを聞いた時、「学校はなぜあるのか」を考える課題、「学校へ行かない選たくをしたあなたへ」の新聞記事の両方が思いうかんだ。
そこで改めて、課題で書いた自分の考えと新聞記事をじっくり読み返してみた。すると今まではあまり気にならなかった部分が気になった。それは、学校の課題で書いた「私は学校が好きです。だからないと困ります」、新聞記事の「あなたの人生はだれのものでもありません。自分が思うようにまず考えてみる」、「自分の生き方は自分で決めていい。あなたのそばに必ず寄りそい、ともに歩いてくれる人はいるはずです。ちゅうちょせずに手を伸ばしましょう。きっとその手をギュッとにぎり返してくれるはずですから」の部分だ。
なぜ、この部分が気になったのだろうと考えた時、「学校が好き」と言える自分は幸せなんだと感じているということ。そして、自分の気持ちにす直になり、人(家族・友達・先生など)から助けられることもあっていいんだということに改めて気づかされたことが大きかったのかと思う。
私のクラスでは、ほめ言葉のシャワーをやっている。毎日、一人の人をシャワーのようにほめていく。ほめられるとうれしい。うれしい気持ちが積み重なると、自分のことがどんどん好きになっていく。そんな経験を多くの人にしてほしいと思う。
今の私だったら学校へ行かない選たくをした人へどんな言葉を投げかけるだろう。
一つは、その人が考えて出した答えはどの答えも正解なんだということ。
次は、「遠りょせずに助けてもらいましょう。」ということ。私も、「遠りょなく助けてもらいます。その代わりに手を差し伸べられたら、さっとその手をつかみ、ギュッとにぎり返しますので安心してください。」ということを伝えたい。学校へ行くことが当たり前と思っていた私にとっては、一つの課題と新聞記事との出会いは、いろいろな考えがあっていいんだと私の気持ちをす直にさせてくれた。そして、自分にしか分からない大切なことがあることに気づかされた。今はいろいろなことがあって当たり前だと感じている。
あせらず、ゆっくり、学校での一日一日を楽しみたいと思う。
評
出された課題から、一番身近な学校の在り方を見直しています。学校の在り方を考える際、色々な境遇や考え方があることを認めつつも、自分にとっての学校は、好きな存在であり、そんな自分は、幸せだと主張しています。皆さんにとって、学校とはどういう存在ですか。考えてみてください。