見方を変えれば、自分が変わる
牧之原市菊川市学校組合立牧之原小学校 5年 永田 杏

 牧之原小五年生は私を含めて二十七名。あらためて教室を見渡すと、本当にいろいろな人がいる。みんなの人気者、頭がいい子、かわいい子、怒りっぽい子、泣き虫の子。
 私がそばにいてほしいタイプはやさしくて、自分の思いをさりげなく伝えてくれるあの子。時々チクチクした気持ちが飛んできて、めげることはあるけれど。
 苦手なタイプは気が強いあの子。少し心配性のところがある私に、直接はっきりと、
「杏ちゃんって心配性だね。」
と言い放つのが得意だ。
 私の学校は、各学年ひとクラスなので、親や先生が時々口にする「クラス替え」というものがない。だから同じ教室で過ごした期間は短い子でも五年目、長い子では八年目に突入している。その間に、いつの間にか私の中に「好みの子リスト」と「苦手な子リスト」ができているのを感じている。
 (みんなと仲よくできればいいのに。)という気持ちもあるけれど、席替えや行事でグループ分けがあると、どちらのリストの子が多いかによって、喜んだり落ち込んだりする。なぜ、私にはそのような人の好ききらいができてしまったのだろうか。そして、この先も私はずっとそのことで、ばたばた、うろうろしなくてはいけないのだろうか。そう考えてもやもやする日々が多くなっていた。
 そんな時、担任の先生が、びっくりするような話をしてくださった。
 「みなさんには一人や二人、『苦手だな、合わないな。』と感じる人がいるでしょう。でも、よく考えてみて。その人は、あなたに似ていませんか?」
というものだった。お話によると「苦手だ」と感じる人というのは、自分と同じ短所をもっていて、それをしょっちゅう自分にぶつけてくるからいっしょにいて苦しくなるのだそうだ。それを聞いて私ははっとした。
「杏ちゃん、意外と言い方きついよね。」
「おとなしそうだけど、気が強いね。」
苦手なあの子から、時々言われていたのを思い出したからだ。その時は心の中で、
(あなたに言われたくないよ。そういうあなたの方が何倍もきついじゃん。)
と思ったけど、似たもの同士、どっちもどっちだったのだ。
 もう一つ、その話で思い当たることがあった。それは二人の弟のことだ。小二の長男は、元気で誰とでも友達になれるいい子なのだけれど、私の前ではすぐにすねたり怒ったり、にくまれ口をたたいたりする。私も悪口で反げきする。そのうち、たたいたりけったりけんかに発展する。
 次男はまだ一歳八ケ月で、最近、
「どーど(どうぞ)」「ちゃーちゃ(お茶)」が言えるようになってきた。そんな次男がいくらたたいてきても、私は怒らないでじっと我まんしている。
 母にたずねたところ、私が小二のころは今の長男に口のきき方も態度もそっくりだったらしい。もっというと、母が子供のころ、今の私たち兄弟とよく似ていたそうだ。友達にそのことを話してみたところ、
「うちもよく兄弟げんかや親子げんかをするけれど、相手のいやなところを言っているうちに、まるで自分の短所を言っているような気がしてくることがあるよ。」
という返事だった。
 母と私と長男。似たもの同士がお互い短所をぶつけ合って、もめながら毎日を過ごしていると知って、また、そういう家族はわりと多いことを知って、今までのイライラがちょっと軽くなったような気がした。そして永田家何代にもわたって続いている性格は変えようとしても無理だし、それは「苦手な子リスト」に入っている友達に対しても同じであることに気がついた。
 「好ききらい」「合う合わない」は相手のせいではなく、自分がもともともっている性格や考え方が決めている。だから、
(苦手な相手に対して、前向きになりたい。)
と思うのならば、
(いつもムカムカさせられるあの子の言葉や行動を気にしない自分になりたい。)
と願うのならば、まず自分を変えていけばよいのだ。なにしろそう感じていたのは自分の見方や考え方がせまくて一方的だったのが原因だったのだから。
 これから私は友達や家族に接する時は、目の前に自分を映す鏡があるのだと思うようにしたい。鏡に自分を映しておいて、怒ったりそっぽを向いたりする人はいない。もし気に入らない姿だった時には、ポーズを変えたり表情を変えたりしながら、そこに映る「自分にそっくりな誰か」とおだやかに話をしよう。だってその人は、私の新しい一面に気づかせてくれる「すてきな人リスト」の一員だから。

担任の先生からとてもよい言葉をもらいましたね。今まで以上に相手のことを深く理解しようとする杏さんの姿勢や相手を変えるのではなく、自分自身を変えようとする考え方に感心しました。杏さんのこれからの生活の中で「すてきな人リスト」の名前がもっともっと増えていくことでしょうね。