「待つ」ということ
浜松市立中部中学校 2年 三枝 碧映

 「待つ」とは何だろう。「待つ」といっても自分のことではなく、相手のことを「待つ」ことだ。私にとって、「待つ」のイメージはマイナスだ。相手を助けないで見捨てる印象があるからだ。それに、忙しい私の日常に「待つ」という時間はほとんどない。しかし、ある出来事をきっかけに、私の「待つ」という印象は、百八十度変わったのだ。
 今年の夏休みに、私は初めて科学館ボランティアに申し込んだ。私は理科が大好きだ。特に宇宙には心が惹かれる。幼い頃は科学館によく通い、プラネタリウムや太陽系について楽しく学んでいた。そんな思い出があり、お世話になったので、今年はボランティアとして恩返しがしたいと思い、申し込んだ。ボランティアでは、親子が参加する工作のワークショップを三回行った。工作の手順が書いてある写真と文章のテキストが用意されていて、それを参加者の親子が見ながら進めていく。私たちボランティアは、新型コロナウイルスの影響で、使う道具や机を除菌したり、作り方でわからないことがあったときに助けたりしていた。そこで見た光景に、私は違和感を覚えた。子供がテキストに書いてある次の工程を見る前に、親が指図をしているのだ。子供が作っているところを見守り、難しいところを手伝うのが親の役目だ。子供は親が作ってくれるとわかると、親に任せて遊び始める。そして親は、
「なんですぐ飽きるの。」
「あんたも作りなさい。」
などと怒る。怒られた子供は、更にやる気をなくす。親が子供を「待つ」ということができないと、こうした悪循環に陥ってしまうのだ。私はこの経験を通して、「待つ」とは何だろう、と考えるようになった。
 「待つ」ことができないというのは、人間の習性なのかもしれない。私も同じようなことを日常生活でしていた。例えば、数学の授業で友達にわからないところを教えるときだ。考え方を説明して、一緒に計算を行う。そうではなく、時間がかかってもいいから、友達が自分の力で解くことができるのを、待つべきだった。自分はわかりやすく教えたつもりでも、相手には、わかったような感覚しか与えていなかったのかもしれない。このことから「待つ」ということは、難しいことだったのだと気づいた。「待つ」という行動ができない、ということに気づくのが、そもそも難しいのだ。この経験をしたからこそ、私も親の気持ちがよくわかる。自分はわかっていると、すぐに手を出したくなる。自分が子供より良いものを作ってあげて、子供の笑顔が見たいと思う。しかし、これは本当の笑顔なのか。人間は、自力で何かを成し遂げると、達成感と喜びに満ちれる。こんなときに出た笑顔が、人間を成長させる本当の笑顔だ。私は、友達の本当の笑顔を引き出せていなかったのだ。
 しかし私は、料理では「待つ」ことの大切さを知っていた。例えば、パンの発酵だ。発酵には時間がかかる。十分に発酵するまで手を出さず、放っておいたほうが良く発酵する。「待つ」ことができないと、うまく焼けない。これはパンの素材が持っている力を信じることが大切なのだ。パンの発酵から「待つ」ことの大切さを、私は知っていたのだ。しかし、友達に教えるときは「待つ」ことの大切さに気づくことができなかった。なぜ、ものが相手だと「待つ」ことができるのに、人間が相手だと「待つ」ことができないのか。それは、私がパンの発酵で、失敗を経験したからだ。「待つ」ことができないと、結果を出さない。その失敗から学び、人間は「待つ」ようになる。では、人間が相手だとどうか。人間は気を遣う。だから、教えている側は「待つ」ことができた気になる。そして、パンの発酵とは違い、人間は結果が出るのにかなりの時間を要する。すると、教える側は結果を求めて「待つ」ことができなくなるのだ。
 では、「待つ」ためにはどうすればよいのだろうか。「待つ」という意識を持つだけでも、すごく変わるだろう。そして、相手をよく見ることだ。誰でも成長しようとする力、頑張ろうとする力を持っている。その力を感じ取り、信じることが大切だ。そして、温かい目で見守ることで、人間は必ず成長するだろう。
 自分にとって相手は、「待つ」という大切なことを教えてくれる。相手にとって自分は、持っている力を信じさせてくれて、何かを成し遂げようとする楽しさに気づかせてくれる。人間が成長するために「待つ」という行動は、なくてはならない存在なのだ。

日々の生活の中の何気ない行動、経験に注目し、そこから感じた事や発見等を伸びやかに見事に表現できています。以前は気付けなかった「待つ」ことの意義、待つ人、待たせる人、第三者として、の様々な視点からの考察もすばらしいです。三枝さんの心の豊かさ優しさが大いに伝わってくる作文です。