「思い出」という宝箱
熱海市立多賀中学校 3年 米山 一輝

 ぼくの祖父は認知症です。軽度のようなのですが、同じことを何回も聞くし、ぼくの名前さえも忘れることがあります。そんな祖父に対して距離をおいてなるべく話さないように逃げていました。それは、ぼくが幼い頃に記憶している祖父との関わりとあまりにもかけ離れていて、寂しさと怖さがあったからだと思います。
 そんなぼくに父はこんな話をしてくれました。それは、ぼくが三才の時に受けた心臓の手術の日の話でした。ぼくが手術を受ける日に祖父は病院には来なかったそうです。そのことを父は祖母に聞いてみると、祖父は「待合室にじっと座って待つぐらいだったら、神社で『お百度参り』をして一輝と一緒に戦って苦しさを共有するのだ」と言って、近くの神社に行っていたそうでした。祖父は足もそんなに丈夫ではないのにぼくのためにそこまで……。そのことを初めて聞いたぼくは、認知症だからといって距離をおいていた自分を恥ずかしく思いました。
 人にはそれぞれの人生があります。そしていずれ死を迎えます。その人生の中で、自分の思うように生きていける人ってどのくらいいるのでしょうか。ぼくの祖父は、認知症になりたくてなったわけではありません。ぼくが幼い頃からかわいがってくれて大切にしてくれました。ぼくと祖父には二人にしかわからない絆があります。その絆は「思い出」という二人の宝箱にきちんと入っています。その宝箱がある限り、ぼくにとっての祖父は昔も今も変わらないものだと感じることができました。
 世間では認知症にたいして偏見でみる人もいます。現にぼくもその一人でした。でも、過去の思い出から、偏見でみるのはよくないのだと気づくこともあると思います。認知症の人たちのまわりには家族や仲間がいると思います。そのまわりの人たちが支えてあげなければ誰が支えになるのでしょうか。
 確かに今は介護施設が日本各地に多く存在しています。認知症の度合いによってどうしても家族ではみることができない人もいるでしょう。でも、大切なことは、そのまわりの人たちが過去の思い出や絆を忘れずにいることだと思います。そうすれば、たとえ施設にあずけていても、できる限り見に行ってあげることはできると思います。たとえ、自分のことが誰かをわからなかったとしても、自分は相手のことはわかるのです。そして、「思い出」という宝箱をあけてみてください。そこにはたくさんの思い出がつまっているはずです。それを考えたら、距離をおくのではなく、自分から積極的に話しかけることをしていかなくてはいけないと思います。
 先日、妻を認知症に持つ夫婦のドキュメンタリー番組をみました。そこで夫は何もわからない妻に昔と変わらず愛情をもって接している姿をみました。なぜかぼくの心にスーッと心地よい風がふいた感覚を覚えました。そうか、「思い出」という宝箱には、「愛情」も含まれているからこそ永遠に残るものなのだとわかりました。
 ぼくはこれから祖父との会話を増やし、ぼくが幼い頃の話を古いアルバムを開きながら語りあって「思い出」という宝箱につめこんでいきたいと思います。それが今のぼくにできる「お百度参り」だと思っています。

たとえ人間の機能が衰えたとしても、共にした時間や感情は消え失せない。その大切さを『宝箱』という言葉で巧みに表現しています。「思い出」という宝箱にたくさんつまったおじいさまの愛情が、きっとこれからも一輝くんの心の大きな支えになりますね。