その先に
富士宮市立北山中学校 3年 植松 萌

 私の家には先日、空き巣が入りました。いつものように部活を終え、自転車で家に帰ると、そこにはパトカーが停まっていました。いつもはまだ仕事をしている両親も帰ってきていて、事情を説明してくれました。窓ガラスが割れ、破片があちこちに散乱しています。たんすやテーブルもひっくり返り、中身は床にほうり出されていました。私はお財布を盗まれてしまい、とてもショックでしたが、母は「萌ちゃんの居るときに泥棒が来なくてよかった」と、なんだか少しほっとしているようでした。
 警察の人たちが出入りする家のすみで小さくなりながら、私は最近読んだ小説の内容を思い出していました。空き巣が出てくる話です。その泥棒は、主人公にこう尋ねます。「君は泥棒や空き巣についてどう思うか」と。主人公は当然、「泥棒は犯罪だ」と答えます。するとその泥棒は笑うのです。「泥棒っていうのは、世の中の不平等を正すために存在しているんだ。だから泥棒は偉いんだ」この言葉を堂々と口にするその泥棒に、私は少しだけ、かっこいいなと思ってしまいました。でも、今私の目の前には、不安そうな母の顔があります。暗い声で会話する、父の声が聞こえます。泥棒なんか、全然かっこよくないじゃないか、私はそう思いました。同時に私は、私とは、こんな人間なのか、と少しショックを受けました。自分のことでなければ犯罪も他人ごとで、かっこいいとすら思ってしまう。でも、いざ自分のこととなると、犯罪に怒りを覚える、都合のいい頭だなと思います。
 一つの民家が空き巣に入られたぐらいでは、新聞にものりません。でも、平成二九年度の被害件数は、三万七千件にも上るそうです。これは、一日に百件以上もの空き巣被害があるという計算になります。平成二六年度の被害総額は、八一四億円にも上ります。これほど多くの人が悲しい目にあっています。これほど多くの被害が出て、何が公正な世の中でしょうか。
 朝、テレビをつけます。朝の情報番組によって、痛ましい悲しい事件が次々と流れてきます。かわいそうに。私は毎朝思います。でも、それだけです。家を出て、自転車にまたがる頃には、私はすっかり悲しい事件など忘れています。感動するドキュメンタリーで号泣したあとも、バラエティーを見て、私たちは笑います。「かわいそう」の先の「何か」に、私たちは踏み出しはしません。それは、めんどうくさいからです。関わりをもつと、自分にも嫌なことが起こるかもしれないからです。
 でも、その先の「何か」に踏み出す人もいます。それは多分警察官とか、お医者さんとかだと思います。警察官は、「かわいそう」を少しでも軽くするために、捜査をします。お医者さんは、「かわいそう」を「かわいそうじゃない」に変えるために、技術を学んでいます。泥棒たち犯罪者によって生まれた不公平を公平にするために、努力をしています。実際に、今、私たちの家に空き巣に入ったと思われる人物が捕まったそうです。裁判のために、被害届を出してほしいと言われました。もちろん出しました。私の家に起こった悲しい出来事は、終わろうとしています。
 部屋のすみで座っている私に、一人の警察官が話しかけてくださいました。「もし何か困ったことがあったら、すぐに連絡してね、すぐにかけつけるから」そう言って、交番の番号を書いたメモ用紙を渡してくれました。これが、先に進んでいる人の言葉なのだと思いました。ずっしりと重く、必ず来てくれるんだという信頼がありました。かっこよかったです。こういう人たちのことをかっこいいというのだと思いました。
 一つ気付いたことがあります。私の家族は皆、空き巣に入られたにも関わらず、誰一人として怒っていませんでした。母は、私にけががなくてよかったと、安心すらしていました。父は私に、「大丈夫だ」と声をかけていました。そして思いました。私の父も母も、先に進んでいる人なのだと。「怒り」よりも先に私を守ろうとしていました。私が思うよりもずっと多く、「何か」に踏み出している人は居るのかもしれません。

実際、自分の身にふりかかって、初めて分かったことは、他人事に考えていた「都合のいい頭」をしていた自分のことだけでなく目の前の出来事よりも先を見て「何か」に踏み出している人が、存在すること。このことに気づいた萌さんの感性や視点、自分自身に加え、周りにまで、目を向けたことがしっかりと伝わる文章でした。